「永遠に生きるかのごとく夢を見て、明日死ぬかのごとく生きろ」
私が人生のモットーとしている言葉です。
私が16歳、高校1年生の時、母がくも膜下出血で倒れました。当時ピアノを習っていた私は、いつもピアノの日は絶対に家にいるはずの母がその日に限って家にいないことに胸騒ぎを覚えました。ピアノレッスンの最中に父からかかってきた電話で、母が救急車で病院に運ばれたことを知りました。頭の中が真っ白でした。
病院に行ってみると、何本ものチューブに繋がれた母がベッドに横たわっていました。
「死ぬ確率は5割。運よく助かっても8割型後遺症が残るでしょう。」と言われました。
突然突きつけられた「母が死ぬかもしれない」と言う現実を受け入れきれませんでした。
当時反抗期真っ只中だった私は、「もっと優しくしてあげればよかった」と何度後悔したかわかりません。くる日もくる日も泣いていました。
結局母の手術は成功し、奇跡的に後遺症もなく助かりました。ただ、私の中には「自分は何もできなかった」と言う悔しさと、次に同じような状況になった時にまた何もできずに泣くだけなのは絶対に嫌だ!と言う強い気持ちが生まれました。
それが、私が医者を目指そうと思った原点です。
高校2年生、医者を目指すには一般的には遅すぎるスタートだったので、寝食以外のすべての時間を勉強に当て、毎日泣きながら、それこそ死ぬ気で勉強しました。万が一受験に落ちたとしても、「これだけ勉強して落ちたなら仕方がない」そう思えるように、1ミリの後悔も残さぬようできることは全てやろうと思いました。(この考え方は、この頃から今もずっと私の根底にあり、後々起業して芽が出ず辛かった時も頑張ることができました。)
最初は「圏外」だった医学部でしたが、努力の甲斐あって無事現役で国立の医学部に合格することができました。
大学では競技スキー部に入り、長期の休みは雪山にこもってアルバイトをしながらスキーに明け暮れ大会を目指しました。スキーの道具や遠征費など資金が必要な部活だったので、一時期は家庭教師、コンビニ、居酒屋、洋服屋の店員と4つのアルバイトを掛け持ちしていた時期もあります。それに落ちたら留年する毎週のテスト勉強が加わるので、いわゆる「花の大学生」とは程遠い生活でしたが毎日が楽しくて仕方がありませんでした。
大学6年生になると国家試験の勉強が始まりました。私は決して成績が良い方ではなく、記憶力も集中力も同級生より少ないと思っていました。ならば、人よりも勉強する時間を長くするしかない!と決意し、みんなが集まる「勉強部屋」に誰よりも朝早くついて夜1番最後に帰る生活が始まりました。
医学部受験の勉強も、国家試験の勉強も、心身ともにかなり辛い日々でしたが、「がむしゃらに勉強する」と言うベースがこの2回で作られました。「今」の積み重ねが「未来」を作る。今を全力で生きることが未来の夢を叶える近道だとこの頃から信じていました。
国家試験に合格し無事研修医になりましたが、私にはもう一つ夢ができました。それは「世界一周」に出ることです。大学6年生の春休み、一人旅をしたタイで出会った様々な旅人や現地で働く人々を見ていて、「世界には、私が見たことも触れたこともない世界が沢山残っている。そんな世界を残したまま死んで後悔はしないのか?」そう自分に問いかけ、研修医が終わると同時に世界一周に出ることを決意したのです。
一般的には研修医が終わってからすぐに専門科を決めて次の病院に就職するのが通常の流れなので、私は同僚に「世界一周にいく」と言い出すのが怖くて仕方がありませんでした。「反対されたらどうしよう」そんな不安を抱えながら恐る恐る伝えた日が今となっては懐かしいです。私の不安とは裏腹に、みんな驚嘆して応援してくれました。
「羨ましい!」「私も行きたい!」そんな声を聞きながら、恐れというのは自分が作り出している幻想に過ぎないのかもしれないな・・と思いました。人は起こってもいない出来事を心配する生き物ですが、いざやってみたらなんていうこともなかった、そんな経験を私はこの後も沢山することになります。
2009年4月。研修医を終えて5日後に私は世界一周に旅立ちました。出発1週間前からは急に不安に襲われて夜も眠れぬ日々を送っていましたが、いざ出発してみたら不安は一瞬で消え、毎日「生きてるー!」と叫びたくなるような充実した日々が待っていました。旅の魅力をよく聞かれますが、一言で言うと「人生の喜怒哀楽が全て凝縮されていること」だと思います。
1年の予定で出発した世界一周は、結局延べ約3年間、合計52カ国を回る旅となりました。
途中ネパールの無医村で診療を手伝ったり、ケニアのスラム街で医療巡回に混ぜていただいたり、インドのシャーマンの治療を受けてみたり、ボリビアの病院に見学に行ったり、世界各地の医療と触れ合いながら旅をしました。
いく前は怖くて仕方がなかった、私にとっての初めてのイスラム教の国パキスタンでは、私が地図を広げるだけで道案内してくれる人だかりができるほど人々から沢山の優しさを受けて、何度も民家にホームステイをさせていただきました。「Welcome to Pakistan」1日にこの言葉を何度聞いたかわかりません。日本に帰ったら絶対に私も外国人にそう言うんだ!と心に決めました。
いく前は全く無知だったチベットの現状を知ってチベット人と共に涙ながらに語り合った日々、女性は顔と手しか露出してはいけない厳しい決まりがあったイラン、ずっと憧れていたアフリカ縦断、沢山の原住民族と出会ったエチオピア、360度の地平線をのぞみながら野生の動物たちを見て心が震えたケニアのサファリ、雄大な南米の自然、本当の豊かさを知ったスウェーデン、人生観を根本から変えられた12年に1度のインドのお祭り・・3年間の世界一周の全てが私の宝物となりました。
2012年夏に帰国。
そして私は救急救命医になりました。世界一周中、何度も「医師としての力」を求められました。現地の人々から「母がお腹が痛いと言っているんだけど診て欲しい」と言われたり、旅人から依頼があったり。はじめのうちはまだ良かったのですが、医師をやめて旅人歴が長くなればなるほど、私は自信がなくなっていき、頼られることを重荷に感じるようになりました。そんな自分をずっと不甲斐なく思っていました。
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「いつどこで何があっても、誰かの力になれるだけの確かな技術と知識が欲しい」と言う想いは世界一周中に徐々に強くなっていき、それを叶える最短ルートが救急救命医になることだと確信し、その道に進むことを決めました。
4年のブランクがあったので、知識も技術もほぼゼロからの再スタート。しかも復帰するときに選んだ病院が、救急の中でも最重症の1分1秒を争うような重症患者しか運ばれて来ない都内中心部のハードな病院だったため、大きなプレッシャーに向き合う日々でした。
今の自分がいかに救急という現場で役に立たないかを毎日痛感し、世界一周の時に感じていたものとは比にならないほど不甲斐なくて、病院のトイレで声を殺してこっそり泣いたことも何度もあります。
でも、がむしゃらに働き続けた結果、私は少しずつ成長していくことができました。
しばらくして、私は沖縄の病院で救急ヘリや離島医療に携わることになります。研修医の頃に見た「コードブルー」に憧れていたので、救急ヘリに乗れることが単純に嬉しかったのを覚えています。
救急ヘリは、東京都心部の大病院での医療とは違い、医者は私一人だけ、ヘリに積める医療機材は必要最低限、診療する患者さんの情報も時にはほぼ話からない状態で駆けつけることもありました。
医者としての知識や技術はもちろんですが、度胸、瞬時の判断力、対応力、機転、コミュニケーション力など様々なスキルが必要でした。
後々振り返ると、これらのスキルを私は世界一周を通して体得していたのです。
そして、救急医時代に培った経験、忍耐力、自分が責任者として患者さんの命に直結する治療方針を決めていく決断力や精神力、それら全ては分野は違えど、現在の会社経営やアカデミー運営、コミュニティ作りや地方創生、発信にいきています。
つまり、今全力でやっていることに「無駄」なんてないということ。それは必ず何らかの形で未来に生きてくる。私はそう思って目の前のことに全力投球して生きると決めています。
沖縄を後にし、私は救急医がいない長野県の病院に呼ばれました。そこでしばらくしてから妊娠しました。